講演の記録
第20回かながわ乳がん市民フォーラム
第20回かながわ乳がん市民フォーラム(以下フォーラム)は、前回に引き続き新型コロナウイルス感染症のまん延により会場での開催が叶いませんでした。
2021年12月2日 湘南記念病院乳がんセンターをお借りして、フォーラムの代表を務める清水哲先生と、乳がん体験者のお二人にお越しいただき「治療終了後の日常と、その時にフォーラムがお役に立てること」という題で座談会を開催いたしました。
診断〜治療中〜治療が終了してから現在までを振り返りながら、体験者さんがどのように乗り越えてこられたのか。 診察室では伺えない人生の一幕を見せていただいた様でした。
世の中にはたくさんの乳がん情報が溢れていますが、治療が終了して長期時間が経った方の情報はあまり見かけないと耳にしまして、体験者のお二人はご自分の思いや情報をどのように共有しているのかもたくさん語っていただきましたので、是非ご覧ください。
座談会参加者
司会: 吉田達也 (済生会横浜市南部病院 外科)
清水 哲 (横浜鶴ヶ峰病院乳腺外科)
茂木伊奈江 (体験者)
木村伸子 (体験者)
1.乳がんの治療の経過と、現在の日常
吉田:皆様、本日はよろしくお願いいたします。 最初に乳がんの治療の経過と、今はどのような日常を過ごされているかを教えてください。
茂木:乳がんになって16年位。50歳のときに乳がんが見つかりました。最初は超音波で乳がんと分かって、その先生がすぐに手術しますので、と何の説明もなく明日からでも手術っていう感じで、いきなりそれは怖いな…となり、もっと他に情報が欲しくてインターネットで検索して自分に合いそうな病院を見つけました。
先生に紹介状をお願いする時に、セカンドオピニオンを希望したいんですって言ったら「セカンドオピニオンってなんだい?」と言われて。やっぱりこれは心配だ、と。(笑) それで紹介状を書いてもらって病院を移ることにしました。
茂木伊奈江さん
転院先では検査を受け直して、やっぱり乳がんと診断されました。
ここには抗がん剤の専門医もいて、抗がん剤で小さくして温存っていう手もあるよ。もし術前に抗がん剤をやらなければ全摘になるよ。と先生が色々説明してくださった。
前の病院より色んなやり方があると説明があったので、安心して治療を開始することができました。
術前抗がん剤を4か月受け、腫瘍が結構小さくなったので乳房温存手術をうけました。
手術して放射線治療を受けて終わりかと思っていたのですが、細胞を取ってみたところ非常に真っ黒いと。普通は茶色だったりするのに、黒に近い色で、このままではちょっと後々が心配だということで術後抗がん剤治療も受けました。
私の場合は女性ホルモンの影響がないタイプだったからホルモン療法はしないということでした。
それからずっと今までも、再発は無いんですけども、やっぱり不安は付きまといますよね。
当時、同じ病院の患者さんから20年経って再発したというのを聞いて、乳がんというのはいつまでも寛解というのはないのかなぁと思って不安を感じました。
今も一抹の不安はあります。なので、時々術側の胸が痛かったりすると、あれ?と思いますし、検査だけは受けないとなって思っています。
吉田:現在は、定期的な外来通院は終えられているのですか?
茂木:外来は行ってないです。52歳ですべての治療を終えてから10年くらいは定期的に受診していましたが、それ以降は行ってないですね。 一応マンモグラフィーだけは検診で受けました。
木村伸子さん
木村:私は22年経ちました。外来でブスっと太い注射を刺してやったんだけど、がん細胞が取れなくて、でも見た目はどう見てもがんみたいな感じなので摘出生検をということで取ったのが、実質、乳房温存手術でした。
その後、放射線、ホルモン療法を5年間。抗がん剤はしていません。
手術から2、3年経った頃にこのフォーラムが始まった。その時に中待合室にポスターがあって、ちょっと暇だし行ってみようかな?みたいな感じで聞きに行きました。
吉田:当時、清水先生がご勤務されていた病院にポスターが貼ってあったんですね。先生、今のお2人の経過を聞いていかがですか?
清水 哲医師
清水:今聞いていてわかることは、乳がんの経過は時代背景がみんな違うってことですね。20年前と15年前でも違うし、20年前は補助療法でトラスツズマブも使えなかったし、いま治療を受けている人たちはもっと違う。
治療のスタート位置がみんな違う中で、術後何年っていってもみんな経過も違うから、それを比べようっていうのは中々難しい。
木村さんなんて、どっちかというと普通のイメージの乳がんじゃないんですよ。診断つかないから取るしかないよねって外来で摘出生検をして、そしたら断端マイナスで取り切れちゃった。(腫瘍も)小さいし、特に治療なくていいねって言って腋窩リンパ節もいじらなかった。だから変な話、ちゃんとした手術はやってないんですよ。(笑)
木村:そうです(笑)。 でもね、放射線室が地下のすごい端っこにあって、行くのに暗い感じがして「あぁ…」って感じで行ったのを覚えています。
吉田:22年前にも今のような生検針があったんですか?
清水:いや、22ゲージ針です。細胞診だもん。当時は今のような針生検ではなかった。茂木さんの時はもう太い針生検あったでしょ。木村さんの時はなかったもんね。外来で針を刺すだけで、今みたいに麻酔もしないし、うまく当たらなかったり診断がつかないっていうと摘出しかないんですよ。
吉田 達也 医師
吉田:確かに、細胞診で診断つかなかった症例の摘出生検を、当時はまだ若手だった自分が担当させていただくことありましたね。なんだか診断や治療の歴史を感じますね。 ところで、木村さんは第 1 回目のフォーラムから参加されているとのことでしたが、その時のフォーラムの印象ってどんなですか?
木村:あんまり覚えてない(笑) 罹患当時はパソコンも持ってなくて、とにかく情報がなかったから、情報が欲しくてがんの講演会とかに行っていたんです。行って資料貰って満足みたいなところがあって。でも、それもなんかもういいかなって、あんまりそういうのに行かなくなったときに、病院の中待合室にフォーラムのポスターが貼ってあって、なんとなく行ってみようかな?という感じで行きました。
これまではただの観客でしたが、昨年から誘われて幹事会に入りました。でもコロナで何もできずで。
吉田:そうですよね、コロナ禍で人と人とのつながりを奪われてしまったような気がしています。そういう中でも体験者さんは、患者会とかもオンラインで繋がっているのでしょうけれど、実際に対面でやっていた時と同じような繋がりって構築できているのでしょうか?
木村:実際に会っての対面とは違います。やっぱり同じようにはいかないです。
マスクはしてないけれど画面では上半身とお顔しか見えないですよね。表情や歩く姿などという情報が少ないと、初めての人はやっぱり分かりにくかった。
ただ、こういう状況の中では画面越しでも顔を見て話すというのは良いと思います。そういう意味では良いのですが、空気感というかね、伝わりづらいのはありますね。でも何もしないわけにもいかないですよね。
吉田:フォーラムの過去の開催内容を見ていると、初めの頃は乳がんのことを勉強しましょうっていうのが多かったですが、徐々に体験者さんを主題にした内容が濃くなっていますよね。
茂木さんは第11回のフォーラムで 『癌がくれた贈り物』 とのタイトルで体験談を発表されましたよね。どんなお話をされたのか教えてください。
茂木:乳がんになった時はさすがにショックでした。「がん=死」ってイメージがあったからね。夫なんか寝込んじゃいました。
それまで夫婦二人で自営業をやっていて、がん治療のためにほとんど一緒に仕事ができなくなって、夫が1人や兄弟と一緒にやるようになった。
私個人でも人形作家という仕事を持っていて展示会などに出していたのですが、乳がんになったことによって、そういうものも全て諦めざるを得ないと思って、展示会に出るのも一切やめて作らなくなりました。
それと、がんになる前は、夫の家族ともあまり上手くいってなかった時期があって。私が間に立ってバランスを上手く取らなきゃという思いでいたので、そういうストレスとか色んなことがあったんですけど、自分が乳がんになった時に、喧嘩していた家族がいろんな形で応援してくれるようになりました。
それがすごく嬉しかったというか、いざとなると人間の本質が出るのかな?みたいに感じました。がんによって、また家族の仲が良くなったり、自分自身も考え方を変えて生きられるようになったりして。乳がんをマイナスっていう風に捉えるっていうことはあるでしょうけども、考え方によってはプラスにすることもできるんだなっていう風になりました。
ミニチュア人形作家でもある茂木さんの作品
吉田:乳がんを体験して、家族がまた1つになれたというような感じですか?
茂木:そうですね。それが、私にとっての贈り物でした。考え方を変えるきっかけになったっていう。
そして、治療が終わってしばらくしてから、治療中に受けた色んな想いが後押しになって、諦めていた人形作りをもう一度やってみようと再開したら、それが賞をいただいたんです。その後もいくつかのコンクールにも出したところ、すべて賞をいただくことができて、アメリカの「国立おもちゃとミニチュア博物館(National Museum of Toys and Miniatures)」が買い付けてくれました。
がんを経験したことで自分自身の内面が変わったお陰で、人形が違う風に変わったのかな?と感じたのですが。よく、作るものって内面が表われるって言うじゃないですか。だからもしかして乳がんのお陰なのかなって思っています。
2.がんへの不安は、なくなるのではなく減っていくもの
吉田:体験者の方々は、いわゆる治療が終了して10年、15年、20年経ってからの、ご本人の状況や気持ちを共有する方法や、情報などをどのように得ているのでしょうか?
茂木:年数が経ってくるとインターネットで『乳がん』と検索はあまりしなくなりました。自分からあんまり情報を求めなくなってしまうかな。今までの繋がりのある方とは、一緒に飲んだり食べたりお話したりで一年に一回はそういう繋がりがあったけど、それも今はコロナでお休みしています。
吉田:検索自体もしなくなっていくって、どういう変化なんでしょうか?
茂木:普段は自分が乳がんだったってことを忘れちゃう。なにか痛みが生じたとか、誰かが乳がんになったとか、そういうのを聞いた時には思い出して、そういえば自分もそうだったなあっていう感じで。それが正直な気持ちかな。
木村:再発の不安はゼロじゃないですけど、やっぱりその最初の頃とは全然違いますよね。
最初の頃は怖かったですよ。だからすごく情報を集めようと思ったけども、今はそれほど怖いっていうのはなくて、それこそ何か症状があればと思うけど、昔と比べて治療薬がいっぱい出てきているのも知っているし。 不安がなくはないけど、恐怖心はない。
10、20年前とは全然違います。そこの部分にそんなに気持ちを持っていかれなくなったってことなんじゃないのかな。
清水:僕は恐怖心が無いっていうのは違うと思いますね。自分の使える時間をどこに使うか、もっと自分のやりたいことが他にあるから、検索するのもそっちでやらなきゃいけないことが増えたから検索をしなくなる。
最初の頃は乳がんのことが、自分の生活の大部分を占めていた。それが時間の経過とともに減ってくるのか、他が増えているのか分からないけれど、相対的に他の事が段々と増えていく。
それは別に不安が減るわけでもないし、なくなるわけでもないから、絶対ゼロにはならないけれど、中にはそれ(がんの不安の占める割合)がずっと多いままで、いつまでも心配と言っている人もいますよね。
近くに乳がんがあるのはみんな一緒だけれども、木村さんみたいに患者会を運営して助けるって仕事の方が増えていくと、自分のことは段々と減ってくる。
だから、不安がなくなるっていうより、僕はそのひとりの人のキャパシティの中で他のことが段々増えてくるんだと思う。
吉田:なるほど。お二人とも「不安がなくなるわけじゃないけど」って言葉が入るじゃないですか。だからやっぱりそこはなくなるわけじゃないんですね。自分の生活の中で乳がん体験者であることの割合というか、配分が変わってくるということなんですね。
清水:まぁ、本人はそう思ってないかもしれないけどね。(笑)
僕は大勢の方を診ていると、そういう感じがします。それが早くからそういう風になる人と、ものすごく時間が経ってもなかなか無くならず、いつでも再発してるんじゃないか、CTやってください、毎回やってください。と不安を抱えたままの人たちも実際に居るわけですよ。
茂木さんは受診がなくなったところで他のことで気持ちが変化したけど、僕が10年20年の人を続けて診ているのは、一年に一回、先生と新しい情報や最近の自分の事を話す場があるっていうのが、再発チェックでもあるけれども、繋がっているっていうのが必要なのかなって思っている。
吉田:茂木さんは、そういう通院がなくなったことでの不安とか、新しい情報と繋がっていたいという気持ちはないですか?
茂木:そうですね、もし定期的にまた来てくださいって言われたら喜んで行きます。(笑)
ただ、もう地元の病院に行ってくださいというような感じだし、こっちは行き慣れてないせいかちょっと億劫だなって感じで。ただ、検診だけはやっぱり受けた方が良いんだろうなと思って、何年かぶりで受けました。コロナワクチン接種で産婦人科の病院に行ったら?マンモグラフィーを当病院でも受けられます?って書いてあったから、じゃあ久しぶりだし受けるかっていう感じで受けました。
清水:茂木さんは治療をしてくれた先生以外知らないから、他にどっか行けって言ったら一からまた人間関係作んなきゃいけない。それをやるほど今は乳がんを大きな問題としては抱えてない。そういう努力をして、もう一回やっぱり続けて診てもらうんだっていうのがないんでしょう。
茂木:そうそう、だから他の病院に行くのが億劫になっちゃう。
清水:まだ心配があれば10年過ぎても、どこかで見てくださいって自分で病院を探して行きますよ。
茂木:実は今年、咳がやたら出るようになって、出たらずっと止まらなくなったりして。
むかし放射線治療を受けたときに年を取ってから肺に何かあるようなことを先生に言われたんですよ。何かあったら病院にかかってくださいねって。もしかしてそれが出て来たのかなと、それが気になりマンモグラフィーを撮ったんです。
清水:咳が気になったらマンモを撮るんじゃなくて内科に行って胸の検査した方がいいよ。(笑)
一同:たしかに!(笑)
清水:今の不安感の大きさで、あぁまた行くのは面倒くさいになっちゃうんだよ。だから、継続してかかっていれば何事でもない、そこに受診する。
吉田:なるほど。病院を受診するというハードルが、自分が元気になればなるほど高くなっていくんですね。
清水:だからみんな時間が経てばそういう心配はだんだん小さくなって、普段と一緒ですよ、がんになる前と一緒。しこりがあるかないかっていうのも、はじめは「え、こんなもん」と思ってるから。みんな一般的には気軽に早く病院へいきましょうねって言うけれども、それは元気に暮らしてた人が病院の門を叩くっていうのはすごくハードルの高いことで、だからああやって皆さん手遅れにして来るわけじゃないですか。
茂木:そうですね。まさしく清水先生のおっしゃる通りでした、私。乳がんの時も周りから早く行きなさいとかっていわれて、いや、脂肪の塊よみたいに自分に言い聞かせていました。
清水:それが今の咳も同じになっちゃってる。
吉田:がんに限らず、今このコロナ禍で病院に行こうってこと自体もちょっとハードル高くなった感じですか?
二人:それはありますね。
3.すべてを乗り越えてからではなく、受け入れながら、同時進行で治療が進んで行く
吉田:お二人とも治療中には副作用も経験されたと思います。その後は治療に関する考え方に何か変化はありましたか?
木村:どうだろう。もし、また治療を受ける状況になって言われたらやっぱり治療はやるかな。よっぽど辛い副作用とかが無ければやるのかなって思うけど。その状況になってみないとわからないかな。
茂木:ホルモン療法を受けると更年期障害みたいなのが出ちゃうんでしょう?
木村:私は当時そんなに出なかったですね。すごくつらかったという人もいるし、色んな人がいるんですけど、私はなんかこんなもんかと思ってた。逆にやめたときにちょうど閉経に近い年齢だったので、その時になんかちょっと調子狂ったことがありましたけど、結構元気で、遊びも仕事もしてという生活ができた。でも最初5年も飲むって聞いて、ええ?5年も薬飲むの!って、びっくりしましたよね。
吉田:確かにその5年って皆さんびっくりしますね。初期治療の話で、手術やその合併症の説明をなどでは皆さんふむふむというような表情で聞いておられますが、ホルモン療法の治療期間のところで「ええっ、5年!?、10年!?」って、驚いて声のトーンが変わりますね。
木村:ほとんど病院にも行ったことなかった人なんで、5年も?と思いましたけど、飲み始めたらなんとなく慣れちゃって。終わったら終わったで、もう飲まなくいいの?って、ちょっとそんな一抹の不安が発生しましたけどね。
茂木:木村さん、楽観主義というか前向きに物事をとらえる感じ?
木村:どうだろうね。でもなったときはやっぱりショックだったけど、そうですね、なんか生き方を初めて考えた気がしました。その時に。茂木さんはそんな時なかった?
茂木:あった、あった。
木村:あったでしょう、やっぱり。 初めてそういうこと(生き方)をちょっと考えた。検査、検査で手術が終わるまで自分の体がどうなるか不安だったの。何も痒くも痛くもないのにどうなっちゃうんだろうって思ってた。
茂木:ご家族は?
木村:ちょうど子供は、中学生と高校生だった。夫には検査の結果で摘出生検をやることになり、一応手術なので同意書がいるじゃないですか。突然、「あの、こういうことでサインしてください」って言ったら驚いてのけぞってました。(笑)
吉田:ご自分ではもうやると決めていて、同意書が必要な時に初めてご主人に伝えたんですか?
木村:なんかね。言葉に出せなかったの。たぶんそうだな、どこで言おうかな、でも違うかもしれないと思いながら。頭ではわかってるんだけど、たぶん自分が受け入れてなかったんだろうなと思います。
吉田:そうやって乗り越えなければならない、受け入れなければならないものがいくつもあるじゃないですか。それらのすべてを乗り越えてから治療が始まるわけじゃなくて、自分が受け入れるものひとつひとつ乗り越えながら、同時進行で治療が進んで行くわけですね。
木村:そうですね。だから、手術と放射線が終わって、次はホルモン剤飲むってなったときに、なんかちょっとホッとしたというか『これで自分の道が決まった』みたいな感じがありました。
清水:僕らの仕事の一つがね、そういう体験を他の人に話すということ。
皆さんが直接他の人に話すことってあまりないじゃないですか。僕を介して何かで悩んでいる人に、今こういう風になってる人がいますよって教えてあげられるわけですよね。
だから僕は20年30年の人を診察させてもらってきて、私の30年後どうなんでしょうね?って聞かれたら、こういう人がいますよとか、20年でも再発しちゃう人もいるんですよ、という話をする。
僕が皆さんを診て、他の人にフィードバックしているんですよね。
吉田:そうですね、僕らは診療の中で同じような治療をした方にこういう人がいたよ、という話をしていくのですが、もしお二人から直接他の患者さんに治療終了後の自分について伝える機会があるとしたらどんなことをお伝えしたいですか?
茂木:ちゃんと治療すればここで終わりじゃない、まだ先がある。未来はある。それぞれ患者さんの状況が違うから自分の経験したことをそのまま言っていいものかっていう迷いもありますが・・・だけど確かに言えることは、未来はある。明日はまだまだ続くよってことですね。
吉田:ありがとうございます。「先が見えない」っておっしゃられる患者さんに出会うことがあるのですが、ぜひ今の言葉をお伝えしたいですね。ですがその一方で、一人の患者さんの体験談がすべての体験者の方に当てはまるわけではないことも感じています。
清水:それはやっぱり難しくて、それがあのフォーラムの場ですよ。茂木さんが一言、自分の事を話す。それに、「あ!私も!」って人たちが会場の中に何人かいるんですね。
「違うわ」って言う人もいっぱいいるけれども、何人か当てはまる人がいる、全員じゃなくて良いんだよね。
だから体験談を話してもらう。
ただ、問題は壇上で体験談を喋ってくれる人が中々みつからない。(笑)
やっと見つけて最初はあんなに嫌がってた人でも、いざそこに立つとちゃんと話すし、それが今度は本人の自信になる。やって良かったって言うんですよ。
体験談もいろんな人が話せば、誰かの今止まってる問題にピタっとはまることもあるかもしれないというのがフォーラムの体制なんです。
4.乳がんの体験を語ること、仲間がいること
茂木:先ほど清水先生もおっしゃられたけど、私も初めてフォーラムを聞きに行ったときに自分とちょっと違うかな?と思う部分もありました。自分と同じ状況の人を知らず知らずのうちに求めちゃうんですよね。だから、あの人はあの人だから上手くいったんじゃない?みたいな感じで考えちゃう部分が確かにあったんですよね。
でも先生方や患者さんたちのお話を聞いたりして、体験談を話すってことで参加するようになって、自分の体験したことが誰かのお役に立てるのはすごく嬉しいな、喜びだなと考えられるようになりましたね。
フォーラムが続いて誰かまた新しい人が他人に自分の体験を話すことによって人の役に立てるということは、その人にとっても、ためになると思う。だからそういう人が増えてもらいたい。
趣味の登山を楽しむ木村さん(2019年カナダ)
木村:私は、がんになって良かったっていうのは、やっぱり世界が広がったというのかな、仲間ができた。それは普通の別な仲間とは違う、同じことをやっても違う繋がりがある感じがする。患者会だとかで知り合って、もう疎遠になった人もいれば今でも付き合ってる人もいます。
がんのことを何も知らなかったところから始まって、少しは医療のことを知ろうとしたり、講演会に行ってみたりって、病気にならなければ何にもしなかっただろうから。そういう意味でも世界が広がったかな。
吉田:最後に、ご自身の体験をお話するということをどう感じていますか?
茂木:この話をしたことで、ちょっとでも誰かの希望になれたらっていう風に思っています。
木村:患者会なんかで自分はこうだったよと話す中で、新しい患者さんが少しほぐれていくっていうことはありますね。医療的なことは何も言えないけど、自分の体験は話せるじゃないですか。それを共有することで、相手の状況が変わるわけじゃないけれど、「そうなんだ、私だけじゃないんだ」って、ちょっと気持ちが楽になってくれるのを感じることは多々あります。
茂木:話すことで自分が癒されるっていうのもあるよね。
木村:そうそう。患者会をしていると、今日は聞きにきただけですって人に限ってね、喋りだしたら止まらないんですよ。もう溢れてきちゃうんですね、たぶん。
茂木:やっぱり同じ病気しているひとだからこそ話せるっていのがあるし、聞いてくれる。
木村:話しちゃうと、もう次に考えが変わっていたりということがある。それは凄いなって。こちらは何もしていないんだけど、話すってこういうことなんだって思う。
吉田:ありがとうございました。今日のお二人のお話をお伺いして、術後や薬物療法中の時期だけでなく、今回話題にした治療終了後の時期の体験者の皆さんの人生というか生き方というか、そういう部分に対して医療者ができることを改めて教えていただけたような気がします。そして、フォーラムという場が参加された方だけでなく、お話ししてくださる体験者さんにとっても「癒し」になっている、「伝える」ということが、他の方への役に立てればという思いだけではなく、自分自身にもプラスになっているという言葉がとても印象的でした。
体験の共有の場として、次回こそは会場で開催できることを願っています。
本日は本当にありがとうございました。